ゴルフスイングは基本的に背骨を軸の中心と考えて円運動を行うものですがそこには難解なゴルフ理論をよく勉強しないと理解・体得できないという壁があると思われている方もいらっしゃるでしょう。
ゴルフに対して真摯な態度で臨まれている証拠で、私としてはとても好感が持てます。
でも理論が先行して頭でっかちに陥ってしまっては本末転倒ですね。
根が生真面目な人ほどその傾向が強いようです。
そこで一度考え方をリセットしてゴルフスイングをフィジカル(身体的・肉体的)に捉えて練習して見ることを提案したいのです。
使用する練習器具は「パワーバランス」というもので、これを軽く握って左右に振る動作を繰り返すことによって、先ほど述べた難しいゴルフ理論も自然な形で身体に覚えこませることができる効果が期待できます。
パワーバランスを振るときには妙に意識せずに、自然・無意識にゴルフクラブを振るように心がけてください。
そうすることにより、どのようなスイングをすれば自分にとって一番ベストなゴルフスイングなのかを見つけることができるでしょう。
パワーバランスを使えば毎日気軽な気持ちでどこでもゴルフスイングの練習が可能です。
期待できる効果としては、遠心力の使い方が上達しますのでヘッドスピードが上がります。
身体の軸が安定し、それに連動して自然な形のゴルフスイングが身に付きます。
実際にゴルフクラブを握ってゴルフスイングをすると、リズムやテンポが良くなっていることに気づくでしょう。
長さが90cmと72cmの2種類がありますので、ご自分にあったものを選ばれるとよいでしょう。
<スポンサードリンク>
ゴルフとアメリカ軍(戦後まもなくのゴルフ事情)
日本人として生まれてきたからには、アメリカを中心にした連合国軍との戦い、「第二次世界大戦」のゴルフ事情についてもお話しておきましょう。
戦前はイギリス人・グルーム氏の尽力もありゴルフがスポーツとして根付きつつありましたが、「スポーツ」としてより一層、身近なものにしてくれたのがアメリカでした。
しかし、第二次大戦中は野球さえも用語が邦語化(ストライクは"正球"、ボールは"悪球"など)しましたので、ゴルフも"打球"(以前ご紹介した日本古来の「打毬」と似ていますね)と呼ばれるようになりました。
でもアメリカとかゴルフが悪いのでなく、その当時の日本軍がそれだけ徹底していたということでしょう。
他にも、バンカー=砂窪、フェアウェイ=芝地、アイアン=金、ドライバー=木の一番、パター=短杖などなど。
ゴルフ場も当然のことながら、日本軍に没収・買い上げられたりしてグライダーや飛行機の訓練場や農地となりました。
ただ、終戦後はアメリカはゴルフには寛大でした。
GHQ(連合軍総司令部)の日本統治が始まると、アメリカの方々はゴルフをしたくてたまらなかったようです。
日本に乗り込んできた当初、基地や軍司令部内の敷地にミニコースや練習場を作っていたようですが、それでは物足りず、「接収」(差し押さえ)という形でゴルフ場を押さえていきました。
中には、日本人のプレーを認めないところもあったようですが、九州などではブルドーザーを持ち込み、演習の一環と称してコースの修復を行ったりしていたようです。
九州の名門コース、福岡・古賀カントリークラブや福岡ゴルフ倶楽部・和白コースなどはこうして戦後の復興をアメリカの支援?で行ったそうです。
第二次大戦中、南太平洋の島々を占領した日本軍が滑走路を作るのに3ヶ月を要したのに、アメリカは3日で作ったと言われました。
日本軍はすべて手作業で現地の住民を動員して行いましたが、アメリカ軍はブルドーザーを使って土木工事をしていました。
「これじゃ、アメリカには勝てないよ!」と皆口々に言っていたようです。
また、北海道でも同様の話があります。
日本最北端の地、稚内に1964年、稚内カントリークラブが誕生しています。
ここはソ連領と接している最前線基地だったため、1972年までアメリカ軍は進駐していました。
当時のアメリカ軍・空軍司令官から稚内市長のもとにこんな要請がありました。
「稚内のアメリカ軍人は自然条件その他を考慮すると非常に悪条件下で勤務しています。
ゴルフを楽しませてやりたいが、アメリカ軍がゴルフ場を造るわけにはいかない。
費用については相応分の負担をするので、そちらで作ってもらえないか?」
(「日本のゴルフ史100年」日本経済新聞社刊、久保田誠一著 より)
1964年9月に開場、アメリカ軍も約束どおり2万5千ドル(900万円)を振り込んでくれました。
が、司令官の熱意とは裏腹にアメリカ兵の来場は少なく、72年アメリカ軍が撤退するときに会員分の預託金600万円を寄付してくれ、嵐のように去っていったそうです。
稚内カントリークラブはアメリカ軍の「置き土産」の形となったわけです。
こうしてみると、アメリカは単に日本を統治していたのではなく、素晴らしい文化を日本に根付かせる一端を担ったといっても、過言ではないかもしれませんね。